幸せなる奇跡の結末

 

 音もない夜、雪が静かに降っている。

 春に溶けてなくなるとしても、すべてを白く染めてくれる。

 まるで、人が作りしものを浄化するようで……

 明日行われる結婚式という舞台を美しく染め上げるのだろう。

 

 

 水瀬家の食事は豪華だ。

 その功績は名雪の母たる秋子さんに起因するだろう。

 ただ一点、あの妖しげな謎のジャムさえ出さなければ完璧なのだが、それを求めるのは酷なのだろうかと祐一はふと思ってしまう。

 だが、いつもなら用事を作り出してその場をごまかす名雪と祐一は、あのジャムさえ食べてもいいかなと思えるほどの幸福感に包まれていた。

 七年前の再開から更に数年、少年と少女は男と女になり、ついに明日二人は結婚する。

 そして秋子さんはその料理の腕をふるって、披露宴代わりに行う自宅でのホームパーティーで振る舞う料理と、名雪の大好きなケロピーが乗っているイチゴジャムがたっぷりかかったウェディンクケーキを楽しそうに作っていた。

「すごいな・・・」

「うわぁ・・・おいしそうだよ〜」

 祐一が感動の声をあげている隣では名雪が目の前にあるウェディングケーキに涎をがまんしていた。

「名雪。明日の分がなくなるぞ」

「わたし、そこまでいじきたなくないよ〜」

 名雪の口調は相変わらずのんびりしているし、祐一のつっこみもあの時のまま。

 秋子さんはそんな二人を見て思わず微笑んでしまう。

「ふたりとも明日は速いのだからそろそろ寝なさい」

「お母さん心配性だよ」

「確かに、結婚式に遅刻したらみっともないからな」

「祐一までひどいよ〜」

 昔の面影が残る祐一と名雪だが、こうして二人で掛け合い漫才をしているときは高校時代のままのような気がする。

「名雪は高校の頃はあんなにねぼすけだったのを忘れたか?」

「それはいわないやくそくだよ〜」

 今でも時々名雪は寝坊をするし、遅刻もするがそう言うときは祐一も名雪につきあう。

 そんな二人が初々しくもあり楽しくもあった秋子さんは、祐一と名雪が「結婚する」と言ったときもただ一言で片づけただけだった。

「了承」

と。

 三人で楽しく話をしていると、名雪が眠たくなってきたので、お開きにすることにした。

「じゃあ、寝ますね」

「おやすみ。お母さん。無理しちゃ駄目よ」

 そういって二人は二階へ上がっていった。

 秋子さんはそれから作業をしばらくしてその手を止める。

「・・・これでおしまいっと」

 やっと終わった料理の下準備に秋子さんは満足そうに頷いた。

「秋子さん、おわったの?」

 この部屋には秋子さん以外誰もいないはずなのだが、秋子さんは背後から聞こえてきた声に少しも驚いた様子も無く言葉をかける。

「ええ。じゃあお茶にしましょうか?」

「そうだね」

 帰ってきた返事は明るくて、そして懐かしい声。

 分かっているのだけど、ついつい質問をしてしまう。

「お茶菓子は何がいいかしら?」

「たいやき!」

 返事は期待したとおりのものだった。

 振り向いた秋子さんにあの時のままのあゆが微笑んでいた。

 

 

「おいしい♪」

「そういってくれるとうれしいわ」

 そういって、たいやきを食べるあゆは本当に幸せそうで、そんなあゆを見つめる秋子さんも思わず顔が微笑んでしまう。

「秋子さんはいつ見てもきれいだなぁ・・・」

「そんなこと無いわよ。私もおばさんになったもの」

 苦笑する秋子さんだが、その美貌は全く衰えていない。

 いや、確実に時は秋子さんを蝕んでいるのだが、それを感じさせないだけの仕草や言葉遣いが上手に老いを隠している。

 秋子さんから見てあゆはあの時のまま。何も変わらない。

「だけど久しぶりね。会いに来てくれるなんてね」

「そうだね・・・」

 言いにくそうなあゆの表情を見て秋子さんはこの話題を打ち切る。

「だけど、来てくれて名雪も祐一さんも嬉しがるわよ。待っていて、今起こして・・・」

 と、立ち上がろうとした秋子さんをあゆの手が止める。

「いいの。いま、ぼくが出ていっても仕方ないことだから・・・」

 悲しそうに微笑むあゆを見て、秋子さんはため息をついて座り直す。

 分かっていたから。

 あゆはまだ、奇跡という夢の続きを信じて眠っているという事が。

 秋子さん自身があゆから奇跡をもらったのだから。

 秋子さんが事故にあった日。その時見た夢を今でも思い出す。

 

「秋子さんにこれをあげる・・・」

 あゆが差し出した光り輝くものが何なのか秋子さんはに分かっていた。

「駄目よ!それはあゆちゃん自身のものよ!・・・他人にあげていいようなものじゃないわ!」

 ただ、あゆは天使のような微笑みで秋子さんに光り輝くものを押しつける。

「いいの。だって、秋子さんはぼくにいっぱいの幸せをくれたから・・・

 今の祐一くんには、支えてあげる人がもういるから・・・」

 最後に見たあゆの背中からは天使のように白い羽が映り、やがて雪とも羽ともつかないものに視界を遮られて・・・目を開けて見えたのは名雪と祐一の姿だった。

 

「懐かしいわね・・・」

 ぽつりとこぼす秋子さんの呟きにあゆは答えない。もっとも、口にほおばったたいやきのせいという理由もあるのだが。

 何となくよそよそしい沈黙の中、ただたいやきをかむ音とお茶をすする音だけが部屋を支配する。

「あのね。秋子さん。今日はね。祐一君達におめでとうを言いに来たの・・・」

 たいやきを食べ終わったあゆが湯飲みを持ったまま、視線は湯飲みの茶柱に向けられて。

「・・・だけどね、言わなくてもいいやと思ったの。

 いまさら、ぼくなんかが出ていっても邪魔だし・・・

 だけど、二人を祝したいという気持ちは抑えられないし・・・」

 支離滅裂で淡々とした声。だけど、押さえきれない悲しみと諦めと逢いたい気持ち。

 秋子さんの視線には、涙をこらえて道に迷っている天使がいた。

「秋子さん。だからお願い。

 ぼくの伝言を伝えて。『おめでとう。幸せに』って」

 だが、いつもなら秒速で「了承」するはずの秋子さんは何も言わない。

 ただ、いつもの微笑みを浮かべながらあゆの瞳を静かに見つめているだけ。

 それが、拒否であることはあゆにも分かっていた。

「どうして?」

 すがるようなあゆの声に秋子さんは優しく答える。

「あゆちゃん。私はみんなが大好きよ。

 名雪や祐一さんも。あゆちゃんも。

 明日は名雪と祐一さんの結婚式。

 どうしてあゆちゃんを悲しませないといけないの?」

「うぐぅ・・・」

 あゆはおもわずうめいてしまう。

 秋子さんの言っていることはすごく正しい。

 多分、あゆ自身が認めていない「名雪への嫉妬」に苦しんでいる事も分かって、あゆにも結婚式に出て欲しいと言っている。

「ねぇ。あゆちゃん。

 人は変わって行くわ・・・たとえ、それが良く変わっても、悪く変わっても一度通り過ぎた時間はもう戻らないわ。

 だから人は、今を大事に生きているの。もう戻ってこないから。

 だけどあゆちゃんは止まったまま。

 祐一さんも名雪も変わって居なくなってしまうのにあゆちゃんだけ止まったまま。

 それでもいいの?」

 あゆは何も言えない。ただ静かに泣くばかり。

 秋子さんはただ何も言わずにあゆの答えを待っていた。

「あのね・・・秋子さん・・・」

 泣きながらも出したあゆの答えに秋子さんはいつもの決め台詞で返した。

「了承」

 

 

 晴れ上がった青空に一面の銀世界。結婚式は街外れの教会で行われた。

「おめでとう!名雪!」

「うらやましいぞぉ!祐一!!」

 澄み切った青空。香里や北川達の歓声を聞きながら祐一と名雪は教会の前に立つ。

 祐一は純白のタキシードを恥ずかしそうに、名雪は純白のドレスを嬉しそうに纏いながら。秋子さんは二人の後ろを暖かく微笑むようについてゆく。

 教会の中に入ると一人のシスターが二人を祝福するために微笑んでいた。

 小柄な体に黒のヴェールを纏い、聖書を片手に二人を静かに見つめている。

 シスターの前に祐一と名雪が立ち、参加者が全員見守る中で式は厳かに行われた。

「これより相沢祐一と水瀬名雪の結婚式を行います」

 シスターのとてもかわいらしい声から始まる式に参列者はざわめきながらも式を見守る。

「なぁ、あの声どこかで聞いたことはなかったか?」

「北川君もそう思う?」

 香里も首をひねるが思い出せないが、式はおごそかに続いてゆく。

「相沢祐一。汝は水瀬名雪を生涯の伴侶として共にすごす事を誓うか?」

(あの声…?)

 考えれば思いつくはずなのだが、現在人生最大のイベントの真っ只中でそんな余裕などない。ただ、質問に答えることしかできなかった。

「誓います」

「水瀬名雪。汝は相沢祐一を生涯の伴侶として共にすごす事を誓うか?」

「はい。誓います」

 名雪にしては珍しい強い意志の声が凛と教会内に響く。

 シスターの顔はヴェールによって覆い隠されているが、そのかわいらしい声で結婚式最大の見ものが二人に告げられる。

「では、両人の口付けによってその誓いを証明されよ」

「ええっ!」

 思わず声にだして動揺する祐一。事前の打ち合わせでは、指輪の交換だったはずだ。

 そして、祐一の動揺が参加者に伝わったと同時にいっせいに巻き起こるキスコールの嵐。

「相沢ぁ!熱いやつを見せつけてくれぃ!」

(覚えていろよ…北川……)  

「ああ、おあついことで…」

 香里などわざとらしく手で仰いで見せている。

 秋子さんにいたっては……言わなくてもいいだろう。

「はずしいよ……祐一……」

 と、言っている割には明らかに期待したニュアンスで祐一に迫っている名雪。

「どうしました?」

 かわいい声とヴェールで素顔が見えないシスターに急かされて祐一もついに覚悟を決めた。

 ゆっくりと名雪のヴェールを取り、唇を重ね合わせる。

 あてつけられた参加者からやっかみと祝福が混じったやじが聞こえる中、シスターはその天真爛漫な声で二人を祝福する。

「天使のお願いによりこの結婚を永遠に守護することを誓おう。

 祐一くん。名雪さん。お幸せに」

 「天使」の一言が祐一に欠けていたピースをはめてシスターの正体に気づく。

「お、お前はあゆだな!!」

「祐一君。わかるの遅いよ」

 くすくす笑いながらヴェールを取るとそこにはあゆの顔があった。

「結婚おめでとう。祐一君。名雪さん。

 これがぼくからのプレゼントだよ」

 

 ゆっくりと天使の翼を広げるあゆ。

 静かに、厳かに、天使が祝福の言葉を述べる。

「祐一君。名雪さん。

 約束するよ。

 ぼくには、奇跡は起こせないけど…

 みんなの思い出の中にいることだけはできる…」

 教会で祝福を告げる天使。

 これを奇跡といわずになんと言うのだろうと参加者全員が思っていた。

(なんであゆがあの目覚ましのことを知っているんだよ…)

(わ、わたしじゃないよ……)

 新郎新婦だけは、目の前の奇跡よりも秘密が暴露されてうろたえていたのだが。

「二人が悲しい時には、ぼくのことを思い出して。

 楽しいときには、一緒に笑ってあげる。

 白い雪に覆われる冬も…

 街中に桜が舞う春も…

 静かな夏も…

 目の覚めるような紅葉に囲まれた秋も…

 そして、また、雪が降り始めても…

 ぼくは、ずっとここにいるよ。

 みんなと一緒に、みんなの未来ともに…」

 光がまぶしくなってゆっくりとあゆの姿がぼやけてゆく。

「ぼくは…

 二人のこと、本当に好きみたいだから……」

 皆が目をあけるとあゆの姿はすでになく、雪のように舞い落ちた羽が残るばかり。

 誰もが呆然とした中、すべてを演出した秋子さんだけが、あゆが夢から開放されたことを知っていた。

 

 結婚式も最後に近づき、花嫁のブーケ投げがやってきた。

「祐一。ブーケはあゆちゃんにあげたいんだけど…」

「そうだな」

「だけど、あゆちゃん何処にいったんだろうね?」

 汗がなぜかたらりと出る祐一。もしかして気づいていないのかという想像が頭から離れない。

「そうね。空に投げてあげたら?

 きっとあゆちゃんは受け取ってくれるはずよ」 

 秋子さんの断言ほど名雪に効く言葉はない。

「あゆちゃん受け取ってね♪」

 高く高く投げられたブーケは途中で崩れ、風に飛ばされて花びらを撒き散らしながら、空に帰って行く。

 それが、この地に吹いた最初の春一番だったのを知るのは後の話。

 

「結婚式に来ていただきありがとうございました。

 つきましては、披露宴を兼ねたホームパーティーを我が家でやることになりますのでどうぞバスにお乗りください」

 秋子さんの指示に従い、空に帰ったあゆの除き全員がバスに乗り込むと各席に「引き出物」と書かれた小箱がひとつ。

 中を開ける勇気は誰も持ってなかった。

 箱を見てバスから出ようとした、祐一、名雪、香里に北川ら過去の犠牲者達はバス最前列に座って微笑んでいる――このときばかり秋子さんの笑みが悪魔に見えた――のを見て、

諦めと同時にあゆのことを考えていた。

(あゆのやつ……知っていて逃げ出したな……)

 

 

 それから一年ほど経ったある日の事。

「…あ、今動いたよ。お腹を蹴ったんだよ」

「いや、あゆのことだから転んだんだろう」

「あはは。あゆちゃんなら、そうかもね」

 名雪は瞳を凝らしながら視点を祐一と自分の腹部を行き来して言う。

 そんな調子の若夫婦の空気に気おされ気味の秋子さんは、嬉しそうに言った。

「もうあゆちゃんって名前でいいのね」

「うん…! だってこの名前が一番いいと思うから」

「そうね……

 あゆちゃんのことだから、生まれた時にきっと『うぐぅ』って泣くかもね」

 秋子さんの冗談に思わず笑い転げる三人。

「…あ、またお腹を蹴ったんだよ」

「きっと『うぐぅ…違うよう…』っていっているんだろう」

「そうね」

 皆で笑いながら秋子さんは思った。

(あゆちゃん。早く私達の所に来てね。一緒に暮らして、一緒に時を過ごして…一緒に幸せになりましょう…)

 

 

 奇跡を望んだ少女は時を止めてその思いを伝えたかった。

 その思いは叶えられ、少女の時が動き出す。

 天使から少女への帰還。

 これが幸せなる奇跡の結末。

 

 

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